第4話
「義姉さん」
葵の声は淡々としており、礼儀正しささえ滲んでいた。
晴美は一瞬呆然とし、無意識に悟の方を見た。これほどあっさりと受け入れられるとは思っていなかったようだ。
悟は眉をひそめ、探るような目で葵をじっと見つめた。
葵は視線を外し、奈央に向き直った。
「まだお料理が揃っていないようですし、厨房を見てきます」
奈央は手をひらひらと振った。
「いいわよ、お手伝いさんがやるから。あなたは座っていなさい。余計なことはしなくていいの」
葵は素直に頷き、ダイニングテーブルの一番端の席に静かに腰を下ろした。
テーブルに並ぶのは悟の好物ばかりで、すべて奈央が厨房に細かく指示して作らせたものだ。
水原家に引き取られた最初の年、葵が高熱を出したとき、奈央が白粥を運んできてくれたことがあった。それが、この家で感じた数少ない温もりだった。
だが、葵と悟の関係に奈央が気づいてからは、二度とその優しさに触れることはなかった。
食事中、奈央は晴美にあれこれと世話を焼き、その場で自分の腕からブレスレットを外して晴美に差し出した。
「晴美さん、これは年代物なのよ。あなたが着けてちょうだい」
晴美は恐縮して辞退しようとしたが、傍らで悟が淡々と口を開いた。
「母さんがくれるって言ってるんだ、受け取っておけ」
晴美は頬を染めてそれを受け取った。
葵は黙々と目の前の料理を口に運んでいた。胃が絞られるように波打ち、箸を噛んでしばらく痛みをやり過ごしてから、無理やり喉の奥へ押し込んだ。
その時、奈央がふいに話題を変え、葵に矛先を向けた。
「葵、ネットに出回っている和也さんと寧々さんのニュース、あなたも見たでしょう?」
葵の箸が止まった。
奈央の口調は決して厳しくはなかったが、一言一言が棘のように刺さる。
「腐ってもあなたは藤原家の名目上の奥様でしょう。世間であんなに騒がれているのに、少しは手綱を握ろうと思わないの?」
晴美は空気を読んでうつむき加減で箸を進め、悟は無表情のままスープを飲んでいる。まるで自分には一切関係のない話だと言わんばかりに。
「自分の夫の浮気も止められないなんて、藤原家の恥になるだけじゃなく、うちの水原家の顔にまで泥を塗ることになるのよ」
葵は音を立てずに箸を置いた。
「私が対処します」
奈央は鼻で笑った。
「本当にできるならいいけどね。そもそもあなたが藤原家に嫁いだのは政略結婚で、両家には提携関係があるの。もしあなたが和也さんに捨てられでもしたら、水原家がこれまで投資してきたものがすべて水の泡になるんだから」
食後、葵は手洗いに行くと言い訳をして席を立ち、二階にあるかつての自分の部屋へ向かった。そこに置き忘れた古い荷物を取るためだ。
大学時代のアルゴリズムの手書きノート数冊と、初めて書いた暗号化プログラムのソースコードが入った古いUSBメモリ。
部屋のドアを押し開けた瞬間、葵はその場に立ち尽くした。
壁は淡いピンク色に塗り替えられ、カーテンも小花柄のレースに変わっている。机の上には何本もの香水と、真新しい化粧鏡が置かれていた。
部屋全体がすっかり様変わりしていた。
彼女の痕跡は綺麗に消し去られていた。
葵はドアの前に立ったまま中には入らず、部屋の隅々まで視線を走らせ、自分の物が何一つ残っていないことを確認した。
きびすを返そうとした時、視界の端に半分開いたバルコニーのドアが映った。
バルコニーでは、悟が後ろから晴美の腰を抱きしめ、手すりに寄りかかって何かを語り合っていた。晴美が笑って顔を仰ぎ向けると、悟は身をかがめて彼女の額にキスを落とした。その動作はあまりにも自然だった。
葵は視線を外し、背を向けて階段を降りた。
「待て」
背後から掛けられた声に、彼女は足を止めた。
悟が部屋から出てきて、階段の上から彼女を見下ろしていた。
「この部屋で何をしてた」
「古い荷物を置き忘れていたから、取りに来ただけ」
葵は振り返らず、淡々とした声で答えた。
悟は二秒ほど沈黙してから言った。
「引っ越してくる前に、お手伝いさんに片付けさせた。晴美の物以外は全部処分した」
葵は階段の途中に立ち、手すりに手を添えた。
「処分したというのは、捨てたということ?」
「ああ」
「そう。分かりました」
彼女は再び階段を降り始めた。足をとめることも、振り返ることも、一言の文句を言うこともなく。
その背中を見送る悟の表情は、かえって険しく沈み込んだ。
葵は奈央に短い別れを告げると、タクシーで藤原家の別荘へ戻った。
一階のリビングには明かりが点いていた。
和也がソファに座っていた。片手にグラスを持ち、長い脚を組んでいる。ローテーブルの上には書類と、画面のついたタブレットが広げられていた。タブレットには、寧々の誕生日パーティーに関する世論のデータが表示されている。
ドアの音を聞きつけ、彼はちらりと視線を上げた。
「来い」
葵は靴を脱いで歩み寄り、ローテーブルを挟んだ向かい側に立った。座ろうとはしなかった。
和也は書類を彼女の方へ押しやった。
「広報対応のフローと想定問答集だ。目を通しておけ。明日までに最終稿を仕上げて、明後日、寧々のチームと認識を統一して声明を出す」
葵はうつむいて書類の表紙に視線を落としたが、手を伸ばそうとはしなかった。
「あなたの秘書が提示した条件に、私はまだ同意していません」
グラスを持つ和也の手が止まった。
彼は顔を上げ、値踏みするような視線を葵に向けた。
「条件?」
彼の声は低く静かだった。
「俺がいつ、お前と条件交渉などした?」
葵は彼の目を真っ直ぐに見返した。
「あなたの秘書は、藤原グループと私の会社の提携を交換条件に出してきました。それは条件ではないのですか?」
和也がグラスをローテーブルに置く。静まり返ったリビングに、ガラスのぶつかる音が澄んで響いた。
「それは条件じゃない」
彼は一文字ずつ区切るように言った。
「それは通達だ」
葵の指先が微かに丸まった。
「やりたくありません」
その場に二秒間の沈黙が落ちた。
和也が立ち上がった。彼女より頭一つ分高い彼の濃い影が、葵をすっぽりと覆い隠す。
「何だと?」
「今回の広報対応は、やりたくないと言ったんです」
葵の声に震えはなかった。
和也は嘲るような笑みを浮かべ、まるで馬鹿げた冗談でも聞いたかのように彼女を見下ろした。
「誰に入れ知恵された? 俺相手に駆け引きの真似事でもする気か?」
「本気です」
「葵――」
彼が一歩踏み出すと、葵は本能的に半歩後ずさった。腰のあたりがキャビネットの角にぶつかり、痛みに息を呑む。
「言ったはずだ。藤原の妻という座はお前のものだが、だからといって俺に逆らっていいわけじゃない」
和也の声は低く、警告の色を帯びていた。
「勘違いするな。お前がその座にいられるのは、お前自身に価値があるからじゃない」
葵は顔を上げて彼を見つめた。
唇は少しひび割れ、照明の下で照らされる顔色は酷く蒼白だった。
彼女が何かを口にするより早く、ローテーブルに置かれた和也のスマホが震えた。
画面が点灯し、着信を知らせる名前が浮かび上がる――『寧々』。
和也の目つきが一瞬で変わった。
彼は電話に出ると、葵が今まで聞いたこともないほど甘く優しい声を出した。
「寧々? どうした?」
電話の向こうから、涙声の寧々がすがりつくように言うのが聞こえた。
『和也、ネットのコメントがひどいの。私のこと、浮気相手だって……私、すごく怖い……』
「もう見るな。今すぐ行くから」
和也は電話を切ると、車のキーを掴み、上着すら羽織らずに大股で玄関へと向かっていった。
